6月1日は「電波の日」 NHKの前身が民放設立に猛反対していた理由
6月1日は「電波の日」 NHKの前身が民放設立に猛反対していた理由(立岩陽一郎)
NHK(C)日刊ゲンダイ
立岩陽一郎【ファクトチェック・ニッポン!】 6月1日は「電波の日」と書いても、ネット時代の今それに特別な意味を見いだす人はいないだろう。しかし戦後の焼け野原から日本が立ち上がる中で、極めて重要な役割を担った日だ。 【写真】斉藤由貴の“魔性”が健在のワケ…毒気&色気ほとばしるムンムン怪演が話題 1950年のこの日、放送法を含む電波関連の法律が施行された。それによってそれまで政府が独占していた電波が開放され、政府から独立した公共放送と、商業ベースで放送を出す民放=民間放送の設立に道を開くことになった。 民放のない社会は今では想像しがたいが、戦後すぐの時期は、民放をイメージできる人はいなかった。また、時の吉田政権は民放の設立には否定的な姿勢だった。加えて、戦前から社団法人として唯一の放送機関だった日本放送協会も民放の設立に猛烈に反対していた。このNHKの前身は、民放設立について次のように主張していた。 「公共放送と商業放送が競争してその発展を図るということを挙げる向きもあるが、逆に大衆に媚びた低俗な放送の氾濫を招来するという弊害の面がより考えさせられる。商放が実現しても、両者はその目的と業務範囲を異にするものであり、真の競争対立による有意義な存在とはならないから、前述の弊害の面はあっても、競争による発展はあまり期待しえない」 ここで「商業放送」あるいは「商放」としているものは、民放のことだ。民放など存在しない方が良いという主張だ。その少し前まで大本営発表を垂れ流していた国策放送局が堂々とこうした論陣をはり、放送の独占を主張していたことに驚かされる。 吉田政権もこの考えを支持していたようだ。放送は今のインターネット以上に、社会への影響力を持っていると、少なくとも信じられていた。そのため、当時の政府は、管理監督が困難な民放の出現を望まなかったということだ。 そうした日本政府、日本放送協会の意向を打ち砕いたのはマッカーサー率いるSCAP=連合国軍最高司令部だった。日本に民放を設置することを認め、それによって放送の独占が崩れた。それが明確になったのが72年前のこの日ということだ。そういう意味では、この日は放送民主化の日というべきだろう。 ■「3テイ」と揶揄された戦前の日本放送協会職員 連合国軍が民放の設立を認めた理由について以前、占領期研究の山本武利氏の指摘を小欄で紹介した。連合国軍の管理下に置かれた日本放送協会の職員が率先して占領政策に協力する姿に逆に不安を覚えたという。連合国軍が去った後は日本政府に同じことをするとの不安だ。 日本経済新聞編集委員として放送を取材してきた松田浩氏は、戦前の日本放送協会では職員は「3テイ」と揶揄されていたと著書に書いている。それは帝大卒、逓信省(現在の総務省)出身者しか出世できず、その結果、職員はやる気を失い低能だ……との陰口だ。 もちろん、現在のNHKは東大卒ばかりではなく、総務省出身者はいない。しかし帝大、逓信省を「権力に従順な職員」と訳すことは可能かもしれない。その「権力」は政府かもしれないしNHK会長かもしれない。その結果としてもたらされる職員への影響が心配される。 (立岩陽一郎/ジャーナリスト)